社長三好一郎のブログ

<プロフィール> 学生時代は野球に熱中。ひじの骨折で野球を断念後、バイトと旅に明け暮れる。そして、北海道へ家出、牧場で働いた後各地を放浪。一転、税理士を目指し広島の学校へ入学後猛勉強。初心者から4ヵ月足らずで簿記一級試験にトップで合格するが、体を動かす仕事の方が性に合っていると帰省、家業の食料品小売にたずさわる。その後、高校2年の夏から付き合っていた典子と結婚。

2010 年 6 月 10 日

フレッシュミヨシの原点は、65年前。

戦後、すべての財産を失った祖父の種吉が米田の村の中で、野菜と干物をリヤカーに積んで一人で行商を始めた。

当時、私の父幸市はシベリアに捕虜として抑留され、生き残るために闘っていた。過酷な環境と労働のため、仲間の多くは、次々亡くなっていったらしい。

 3年間に及ぶシベリアでの闘いを終え、帰国した時には、骨と皮の状態だったという。

米田の村に帰ってきてから、祖父の種吉の行商を手伝うようになったらしい。 雨の日も、風の日も、休むことなく、朝早くから、自転車で大八車を引き、姫路の卸し市場まで、商品を仕入れに行き、それらを日が暮れるまで売り続けた。

父が母輝子と結婚し、私が生まれてからも、やっと買った車に、商品を載せ、幼い私を連れて、各地に、行商に出かけていた。

休みなく、毎日、朝早くから、夜遅くまで働く父の手伝いをしながら、私は育った。

 青年になった私は、父に反発して、家出した。

北海道に行き、牧場で働いた後、各地を放浪した。

その後、色々な経験をした後、私は、地元米田に帰り、父の商売を継ぐ決心をする。

22歳の時、高校2年の時に出逢った典子と結婚し、祥平、耕平と逢えた。

そして、長男の祥平の想像を絶するアトピーとの闘いを傍で見て、化学合成添加物まみれの現代の食に疑問を抱き、安心、安全なオーガニックスーパーを立ち上げる決心をする。

15年前、私自身デザインした住宅兼店舗を建て、オーガニックに切り替えてから、私の本当の闘いが始まった。

播州でのオーガニックスーパーは、誰もが、無理だと言った。

しかし、私は、祖父種吉、父幸市が、汗を流して、苦労を重ねた、この場所、米田にこだわった。

私自身にも、想像以上の苦難が続いたが、今、振り返って考えると、全てが必要な事だったように思う。

祖父種吉が行商から始めた創業から65年、私が、父幸市から引き継いだ店を新規オープンと共にオーガニックに切り替えてから15年、地元播州の多くのお客さんに支えられてきた。

多くの店の中から、わざわざ当店を選んで、来店して下さるお客様に恩返しをしたいと、ずっと思ってきた。

3年前、長男の祥平とパリ、ミラノに、オーガニック視察旅に出掛け、多くのビオマーケットと、食料品店を見て回り、地元の人達に愛されながら、商売を継続している人々に感銘を受けながらも、道行く人を意識したのであろう、美しい花で彩られた町並みにも魅了された。

その時感じた花の力を信じ、3年間構想を温め、この度、店の外観を、三木の風雅舎さんに、ガーデニングを依頼し、有機肥料で育てられた約100種類の花々で、飾りました。

おもてなしの心で、花で心なごむ出迎えを!

  

  

2010 年 3 月 4 日

 3月になると、思いだすのが、4年前のアメリカへのオーガニック視察旅での、ワクワク、ドキドキした日々。

 アメリカへ、留学していた長男の祥平から、「留学当時、お世話になった人達にもう一度会いに、3月にアメリカを旅するけど、親父一緒に行かへんか、ホールフーズマーケット見んでもいいんか?」と、誘われて出かけたアメリカへの旅。

 ニューヨークの旅の出来事は、テーマ別の記事、アメリカオーガニック視察旅の中に少し書いているが、憧れていた、ジャズクラブ、ヴィレッジヴァンガードでジャズを堪能した翌日、ニューヨークからラスベガスに飛び、小型飛行機に乗って、長年夢に見ていた、グランドキャニオンへ。

 グランドキャニオン飛行場に着き、タクシーで、予約を入れておいたブライト・エンジェル・トレイルの入り口に建つ、ブライト・エンジェル・ロッジへ。

山小屋風の造りで雰囲気も抜群なうえ、ロッジの裏庭からグランドキャニオン渓谷が一望できる。

ロッジに荷物を置き、早速、祥平とトレッキングに出かける。

気温は氷点下で、吐く息が白いが、目の前に広がる、コロラド川が数億年の途方もない時間をかけて大地を削り、造り上げた大自然の織りなす景観を見ながら、寒さを忘れて歩き続ける。

ヤバパイポイントから見下ろす渓谷は、大自然が造りだした人智をこえた芸術だ。

刻々と移り行く時間ごとに、表情を変え、光と影が造り出す絶景に、思わず感嘆の声が出る。

ヤバパイポイントから、無料のシャトルバスに乗り、夕日を見るために、ホビポイントへ。

祥平と、二人で、夕日を見るのは、彼がアトピーの悪化で目の輝きを失った時、誘って出かけた立山縦走の旅以来だ。

ホビポイントに到着した数分後に、大きな太陽が、雄大な空を真っ赤に染めだし、大地に沈んでいく姿を、祥平と二人、息を飲みながら見つめ続けた。

 翌日、5時前に起きて、朝日を見に、マーサーポイントへ出かける。

あいにくの曇天の為、朝日は見れなかったが、私は、朝日の昇ってくる方向を見つめ続ける祥平の後ろ姿を眺めながら、

昔の事を思い出していた。

私は、若い時は、いい父親ではなかった。

幼い祥平が最初の喘息の発作を起こした時、私は、男友達とドライブに出かけていた。

なぜか、胸騒ぎがして、予定より早く帰宅すると、祥平が救急車にのせられている時だった。

苦しそうな、表情で、顔色は、血の気を失っていた。

私は、うろたえながらも、必死で救急車の後を追った。

運ばれた、神野病院で、抱っこした時の、彼の表情と感触は、25年経った今でも覚えている。

それからも、彼は、喘息と、アトピーの悪化を繰り返す。

私は、彼の姿を見て、その後、今の仕事、オーガニックスーパーを立ち上げる決心をする。

 青年に成長した彼は、国連で働くことを夢に見て、大学進学で、18歳で家を出ていった。

彼は、それから、色々な経験をしたのだろう。

ボランティアも兼ねて、多くの国も旅している。

やさしい男になった。

そして、随分とたくましくなった。

朝日の方向を見つめる祥平の後ろ姿は、私にとっては、かけがえのない残像として、心の中に残っている。

 

 

2010 年 1 月 25 日

 今年で、戦後、祖父の種吉が行商から創業してから65年目。

私が、父、幸市から引き継いだ、店を新規オープンと共にオーガニックに切り替えてから、無事15年目を迎えることができた。

 前にも書いたが、最初の5年間は休みもなく、早朝から深夜まで働きながらも、2000万を超える赤字を出し、店を潰す恐怖で、夜もろくに眠る事も出来ず、光の見えない日々の中で、もがいていた時、唯一救われたのが音楽だった。

 仕事を終え、食事を済ませ、居間の真空管のアンプに火を入れ、レコードを取り出し、プレイヤーに載せ、針を運び、プリアンプのボリュウムを上げる。

 心が折れそうになる度に、聞いていたのが、1980年の6月6日に代々木の教会で録音された、コントラバス奏者のゲーリー・カーのコルニドライだった。

A面のコルニドライ(神の日)を意味する聖歌と、次の曲、(祈り)を聞きながら、なぜか心を震わせ、涙を滲ませていた。

いつも、聞く度に、心が安らかになって、救われた気がして、その日は眠れた。

ゲーリー・カーのコルニドライに出逢っていなかったら、今の私は、なかったとさえ思う。

 

 一昨年の3月の店の定休日、ふと思い立ち、女房と、子供達との思い出の多い、作用町大撫山の山頂にある天文台公園に愛車でドライブ。

眼下に作用の町並みを眺めながら、子供達との思い出話に花を咲かせ、しばらく滞在した天文台公園からの帰路、スピカホールが見えた。

 少し通り過ぎてから、なぜか、立ち寄りたくなって、急ブレーキをかけ、女房に、「少し、寄っていきたくなった」と言いながら、駐車場に車を止め、ホールの方まで歩いていくと、コントラバスの音色が聞こえてきた。

 ホールに入ると、大勢の若者がコントラバスを奏でていた。

その若者達の演奏を、微笑みながら、聞いている紳士がいた。

その紳士が、私にとっては、恩人とも言えるゲーリー・カー氏、その人だったのです。

ゲーリー・カー氏がなぜ、目の前に?

 実は、毎年カナダのビクトリアで開催している後進の指導の為の合宿「ゲーリー・カーキャンプ」が日本で始めて、それも作用町のスピカホールで行われていたのです。

コントラバス奏者を目指している、日本の若者達の為に、ボランティアで来ていたのです。

 若者達にやさしいまなざしで、時折、笑みを浮かべながら、指導している姿を眺めながら、私は、「ありがとうございました。」と、感謝の言葉を繰り返していた。

?

2009 年 11 月 20 日

 おかげさまで、11月で、新規オープンしてから14周年を迎えることが出来た。

14年前のあの日々、私は、光の全く見えない闇の中で、もがいていた。

自分自身にも、店の将来にも、自信を失い、自殺まで、考えるような日々を過ごしていた。

それから、後がない崖っぷちまで、行った後、私は、気づき、変わろうと思った。

そして、店の方向性を完全に、オーガニックに切り替えるという大きな決断をした。

安全な食べ物を生産している人々を訪ね、店に卸してもらえるようにお願いして回った。

私は、必死だった。

早朝から、深夜まで働き、休みもなかった。

しかし、3年間は、お客さんも少なく、全く、売れなかった。

その3年間で、2000万を超える赤字を出す。

心が折れそうになった。

もう、無理だ。

諦めて、店を閉めようと思った。

そんな時、一人のお客さんの

「私の探していた店を、やっと見つけた。」と言う声が聞こえた。

・・・・・涙が出た。

初めて、光が見えた。

勇気が湧いてきた。

その後、死に物狂いで働いた。

お客さんが、少しずつ、少しずつ、増えていった。

遠くからお客さんが、来てくださるようになった。

多くの人との出逢いがあった。

たくさんの人の世話になった。

生産者、従業員、お客さんにも、助けられてきた。

多くの人に感謝している。

今、思う。

ありがとうを、行動に変えて行かねば。

もっと、皆さんに喜ばれるような店にしなければ。

2009 年 7 月 22 日

 耕平との二人旅の最終日。

少し、話をしてから、彼の、今後の健闘を祈って、宿で別れることにする。

彼は、軽井沢に寄ってから、東京に帰るので、明神館のシャトルバスで松本駅へ。

 私は、再び、林道を走り、扉峠へのヘアピンカーブを上っていくと、だんだん霧がたちこめ、扉峠に着くと、昨日以上の濃い霧で、センターラインだけを頼りに、ビーナスラインを下っていく。

すれ違う車もほとんどなく、雲の中を走っているような、浮遊感を伴うドライブが延々続いたが、やがて、視界が開けていき、蓼科高原のバラクライングリッシュガーデンに到着。

私は、近年、急に、木と花の美しさに目覚め、個人の庭を見せてもらっているうちに、店の建物の外観を木と、花で覆い、緑と握手するような空間を創りたいと夢に見るようになった。

ガーデン好きの聖地として知られる、バラクライングリッシュガーデンは、英国園芸研究家のケイ山田さんが、1990年にオープンした日本初となる本格的なイングリッシュガーデンで、平日にも関わらず、多くの女性が来園されていた。

ハーブガーデンから、バラで包まれたバラのトンネル、バラのレースガーデン、バラのバーゴラを通り、オールドローズが、美しく咲き競っている、ローズガーデンの中に立ち、バラという花に次第に魅了されていった。

神様がくださった庭、ブルーベルの森、睡蓮の池など、テーマのあるガーデンを散策し、力強い生命力にあふれた、植物を見ながら、少し前まで、視界のない濃い霧の中を挌闘し、すこし疲れた気持ちが、安らいでいった。

この美しく調和した、イングリッシュガーデンのオーナー、ケイ山田さんも、オープンにこぎつけるまでに、さまざまなトラブルに見舞われ、オープン後も艱難辛苦があり、ひとつひとつ克服しながら乗り越えて行ったらしい。

美しい庭を創るには、たゆまぬ努力と汗と、それを継続する情熱が必要だと悟った。

 今回の信州の旅で、それぞれ訪れた場所で、そこを創った人の志と、思いの強さを感じた。

三水館の主、滝沢津田夫さんは、国内の気になる宿を片っ端から泊まり歩き、そのエッセンスを自分の体内にしっかり留める、繰り返しのなか、前進している。

 無言館の主、窪島誠一郎氏は、長年かけて、全国の戦没画学生の遺族宅を行脚して、画学生達が残した、作品を収集し、十字架の形をした無言館を創り、生きる意味を伝えているが、私にも、あらためて大切なものを考えさせてくれた。

 私が長年憧れた、ヴィラディストファームを創った、玉村豊男さんは、私に夢を見る力と、自分を信じる力の大事さを感じさせてくれた。

今回、人生の壁に直面している、次男の耕平を誘っての初めての二人旅だったが、彼にとって、この旅が、何かのきっかけ、スタートになったら幸いだ。

私にとっては、彼との思い出の旅になったし、感じることも、考えさせられることも多かった。

 信州を後にし、中央高速道をぶっ飛ばしながら、15年前、私自身、理想とする店、建物をデザインし、当時、どこにも無かったオーガニックスーパーを創ることを夢に見て、必死で突っ走って来た、過ぎ去りし日を思っていた。

そして、私のこれからの人生を、どうデザインしていくか、思い巡らせた。

 

  

2009 年 7 月 18 日

 ヴィラディストファームを出発して、一路、信濃路を南下し、八ヶ岳の山岳道路から、標高2000メートルを超える麦草峠を越え、ヘアピンカーブが続くワインディングロードをシフトチェンジを繰り返し、我が愛車は、スピードを保ったまま、数々のカーブを潜り抜けていく。

横に乗っている耕平は、戸惑ったかもしれない、そして、親父は、変わったと思ったかもしれない。

 一昨年の10月、一昔前のスポーツカーと思いもかけない運命的な出逢いをし、私は、この車と、これからの残りの人生を共に送りたいと思った。

そして、その車、1992年製、ポルシェ964カレラ2が、私の人生の景色を変えた。

同時に、人生の新たな挑戦をしようという勇気も湧いてきた。

 かなり厳しかったワインディングロードを切り抜け、蓼科高原から、ビーナスラインに入り、白樺湖、車山高原を通り、霧が峰高原についた頃には、文字通りあたり一面、霧に覆われていた。

 幻想的な風景を見ながら、初めて訪れた、37年前の記憶が蘇る。

前にも書いたが、16歳の11月、信州一人旅、白馬連山八方尾根の八方池まで登山した後、雪に降られて、滑り落ちながら、命からがら下山してきた。

その後、列車とバスを乗り継いで、日が暮れた後、霧で覆われた、霧が峰に到着。

道に迷いながら、やっとの思いで、山小屋にたどり着いた記憶を、甘酸っぱい思い出と共に、思い出した。

なぜ、37年前の出来事をこうも鮮明に思い出すのだろう。 

 霧が峰から、美ヶ原方面に向かい、扉峠から、林道を通り、扉温泉の明神館に5時過ぎに到着。

すぐに、一人、この宿の名物とも言える、展望風呂、雪月花へ。

この風呂の写真を雑誌で見て、今回の宿に決めたが、実際、扉を開けて、目に飛び込んできた、光景に心躍った。

誰一人いない中、緑の林と、雨で水量の増えた川を眺めながら、入る湯は、ため息の出るほどの心地良さで、贅沢な時間を堪能した。

夕食は、オーガニックフレンチを選択し、新たな世界を目指している、趣向の料理を楽しんだ。

その後、耕平と色々、話をする中で、お互い、本音の意見が出た。

私も思わず厳しい言葉を言ってしまったように思うが、最後は、彼を信じてやろうと思った。

彼も、自分自身で、人生の景色を変えていかねばならない。

 

 

2009 年 7 月 17 日

 無言館を出てから、東御市にあるヴィラディストファームへ向かう。

ここは、エッセイスト玉村豊男氏が開いた、ガーデンファームアンドワイナリーでカフェもオープンしている。

玉村氏は、41歳の時、過労とストレスから大量の血を吐血し、さらに輸血後、肝炎にかかって2年の闘病生活を送る中、人生の折り返し点で、そろそろ死ぬ場所となる終の棲み処を探し始めるのも悪くないなと思い立つ。

ちょうどその頃、奥さんは、ある園芸家との出会いから、農業の喜びに目覚めていた。

奥さんに触発されて、日当たりのよい広いところで農業をやろうと、2年間、毎週、車を走らせてついに、二人は理想の土地を見つけ出す。

その場所に、理想の家を建て、奥さんと二人だけで農園をはじめるのだが、その時の様子は、氏の「種まく人」「田園の快楽」に詳しく書かれている。

私は、15年前に読んで、そのライフスタイルに憧れた。

氏はその後、農場を広げ、ワイナリーとカフェまでオープンする。

その経緯は「花摘む人」に書かれており、60歳を前にして、億という借金をして、ワイナリーまで創ろうとしたのは、子供のいない氏が、どうしたら、ヴィラディストファームを次の世代に受け渡せるのかを 考えての決断だった。

その心境を、氏は、好きなラテン語のことわざを引用している。

「勤勉なる農夫は、みずからがその果実を見ることのない樹を植える。」

その言葉に、私は感銘を覚える。

東御市の小高い丘の上に、目指すヴィラデストファームはあった。

ハーブガーデンから続く一面の葡萄畑、その下には、上田市街と千曲川、遠くにはアルプスの山々、素晴らしい景色だ!

この景色を私は、長年見てみたかったし、今回、耕平にも見せたかった。

カフェに入ると、景色が見渡せるテラス席に案内される。

平日の1時を回っているのに、女性客で、ほぼ満席の状態だ。

ランチメニューの中から、私は、「やわらか蒸し鶏のアボドソース」を、耕平は、「自家製ソーセージ」を選ぶ、それぞれに、スープと自家製パンがセットになっている。

最初に出てきた、かぼちゃのスープの美味しいこと、自家製のパンも香り高く、フランスで食べたパンを思い出す。

メインの料理は、それぞれ美味しかったが、自家農園で採れた野菜もタップリに盛られており、この野菜の濃厚な味わいは、忘れがたい。

窓の外に広がる素晴らしい眺望と、この料理が揃えば、多くの女性客の人気を呼ぶのも当然だ。

働いているスタッフもイキイキとした表情で、この職場を愛しているのが伝わってくる。

19年前に、玉村氏が、闘病をきっかけに、導かれるように、終の棲み処で隠遁生活をしようと、2人だけで始めた、ヴィラディストファームが、多くの人との出逢いにより、今では、40名を超える若いスタッフが働く、世代を超えて永続しようとしている場所になっていることに感動を憶える。

食後、耕平と眼下に広がる素晴らしい光景を眺めながら、ガーデンを散策した。

そして、夢を見る力と自分を信じる力が、ここを創りだしたのだと感じた。

耕平と私にも、夢を見る力が必要だ。

 

 

2009 年 7 月 15 日

 翌朝、目が覚めると、雨になっていた。

耕平は、まだ寝ているので、一人、朝風呂を浴びに温泉へ。

途中、目に入る、雨にうたれた周りの木々が、より一層美しい。

静かな雨の中、一人で入る、露天風呂もオツなもので、雨もまた良しである。

部屋に戻ると、耕平も起きており、朝食をいただきに、食事処へ。

朝ごはんも地元の食材でつくられたもので、野菜のおひたし、煮物、大根おろし、温泉玉子、どれも美味しかったが、味噌汁とご飯の美味しさは、格別のもので、今まで数多くいただいた朝食の中でも最高のもののように思う。耕平も何杯か、おかわりをしている。

食後、ロビーでコーヒーをいただきながら、静かな時間と、心落ち着く空間で過ごすひと時が、すごく贅沢な時間に思われた。

鹿教湯温泉の三水館、主の思いを感じた、いい宿だった。

宿を出てから、塩田平の戦没画学生慰霊美術館「無言館」を目指す。

耕平には、無言館という美術館に行くとだけ伝えた。

無言館は、小高い丘の上に、中世の修道院を思わせる姿で立っていた。

正面の木の扉を開けて、中に入ると、厳粛な空気が流れているのを感じ、思わず被っていたハンティング帽を手に取る。

この無言館には、第二次世界大戦で、志半ばで戦場に駆り出され、命を落とした画学生達の作品が展示されており、妻や恋人のポートレートや裸婦像、愛する家族の姿や、故郷の山や川、など、どれもみずみずしいタッチで描かれており、どの絵も不思議なほどの静けさをたずさえている。

無言館に入ってすぐ左に展示されている、中村萬平さんの、「霜子」という絵には、釘づけになってしまった。

萬平さんは、学生結婚していた奥さんの霜子さんの裸婦像を描いた後、戦場に駆り出されたが、その時、霜子さんのお腹には赤ちゃんが宿っていた。萬平さんは、生まれてくる自分の子供の顔を見ないまま、遠い中国の戦場で一人さみしく戦死。

そして、赤ちゃんを産んだ後、霜子さんも身体を悪くして、半月後になくなった。

萬平さんが残した「霜子」という絵は、その時生まれた息子の暁介さんの手によって戦後大切に守られた。

暁介さんは、この「霜子」という萬平さんの絵をみるたびに、「ああ、ここに母が生きている、父が生きている」と思うのだそうだ。

絵と共に、萬平さんが戦場から霜子さんに送った手紙、戦前の二人の幸せそうな写真を見ていて、胸が痛むが、感動もする。

無言館に飾られているすべての絵に、それぞれのストーリーがあり、そして、絵と共に、展示されている手紙からも、亡くなった画学生たちが、いかに自分のそばにいる家族を愛していたか、いかに大切に考えていたか、そして、どれほど絵を描くことを愛していたか、絵を描くことが大好きだったが伝わって来た。

耕平も熱心に画学生たちの絵と、残した手紙を見ているが、何か、感じただろうか。

無言館に飾られている、戦没画学生の残した絵から、「愛するもの」「大切なもの」「大好きなこと」の大事さを教わった気がする。

人生とは、「愛するもの」「大切なもの」「大好きなこと」を見つける旅かもしれない。

耕平も私も、まだ、その旅の途上だ。

 

2009 年 7 月 13 日

 久しぶりに、東京で一人暮らしをして、プロダクトデザイナーを目指している次男に電話をかけ、近況を聞くと、元気がない言葉が返ってきた。

どうも、色々と思うように行かなくて、悩んでいるようだ。
 少し考えてから、彼を旅に誘った。
「父さんに3日間付き合ってくれ、一緒に旅をしよう。」
すると、彼は、思いもかけず、あっさりと、「うん、分かった」と承諾した。
考えてみれば、長男の祥平とは、海外の2度の旅を初めとして、何度か、二人旅をしてきたが、次男の耕平とは、今回が初めての二人旅ということになる。
 約束した日、昼前まで、仕事をこなしてから、500キロ先の、耕平と待ち合わせしている信州の山奥の宿を目指し、愛車を走らせる。

今日も我が愛車は、機嫌が良く、リアの空冷エンジンの音もいつものように官能的で、次第にスピードを上げていく。

中央自動車道も快調に飛ばし、5時過ぎに、予約を入れておいた、鹿教湯温泉の、四方を山と川、田と畑で囲まれた本日の宿、三水館に到着。

ここ、三水館は、二代目の主が6年前、新しい挑戦として、古民家を移築リニューアルして創られた宿だ。

その時の美術監督とも言うべき人が、木工作家の井崎正治さんだ。

宿のコンセプトからデザインまで考えられた方で、昨年、稲美町のギャラリー天心さんで行われた、井崎さんの個展で実際にお会いし、氏が創られた椅子のデザインと座り心地に魅了され、その場で2脚購入した。

その後、色々な話をさせていただいた中で、お聞きした、三水館さんの話が心に留まり、今回、耕平との一泊目の宿に決めた。

入り口から、吹き抜けになった、ロビーに入った瞬間、流れている凛とした空気に、この宿の主の志を感じる。

それから、ロビーの井崎氏作の椅子、木彫作品、絵画など、井崎さんの作品を目にし、氏の美意識に共鳴する。

耕平は、東京から、列車とバスを乗り継ぎ一足先に、宿に到着していた。

しばらくぶりに会う彼は、少し痩せたように思えた。

苦労しているのか・・・。

夕食前に、一人、温泉に浸かりに行く。

さらっとした湯が心地よく日頃の疲れをほぐしてくれる。

夕食は、地元の野菜と、魚をメインにした、決して着飾った料理ではないが、一品一品、素材の持つ力強く、滋味深い味わいと、身体に染み入る美味しさで、嬉しさがこみ上げてくる。

耕平と、ビールを酌み交わし、普段の東京での生活を聞きながら、5年前、プロダクトデザイナーになるのを、夢に見、家を飛び出していった彼の、この5年の月日を思う。

辛いことも、哀しいこともあっただろう。

面とむかって、会っているのに、気のきいた話もできないまま、夕食が終わった。

夕食後、宿の人が、前を流れる川をもう少し下流に行くと、蛍が見えますよ、と教えてくれたので、川沿いに、下流の方に歩いていくと、青く光る無数の蛍が私達の目の前に現れた。

幻想的な蛍の飛び惑う光景を、耕平と一緒に眺めながら一日目の夜は静かに更けていった。

  

  

2009 年 5 月 6 日

日々ハードな仕事に追われていると、いつしか、海か、山を思っている自分がいる。

昨年秋に生まれた、白浜アドベンチャーワールドの子パンダを、女房が見たいと言うので、今回は、南紀白浜の海とパンダを見る旅に出かけた。

我が愛しの愛車で、神戸ハーバーハイウェイから阪神高速湾岸線を快調に飛ばす。

いつしか関空へのスカイゲートブリッジが見えてきた時、関空から飛び立った、パリ・ミラノビオマーケット視察旅の刺激的でドキドキした旅を思い出し、懐かしさと共に時の過ぎ去る速さに驚く。

前年、アメリカに留学していた長男に誘われて、アメリカオーガニック視察旅に出かけ、元気と勇気を取り戻した私は、次の年、やはり、長男とパリ・ミラノビオマーケット視察旅に出かけ、私と店のこれからのビジョンも見つけることが出来た。

来年、オーガニックに切り替えてから、15年という節目で、店のリニューアルを考えているが、ニューヨーク、パリ、ミラノで見たマルシェとフードショップの瞼に焼き付けている映像を私なりに熟成させ、リニューアルのイメージを頭の中で思い描いているところだ。

 湾岸線から阪和自動車道を南下し南紀椿温泉に到着、ここに、本日の宿、海椿葉山があった。ここは、建築家、竹原義二氏のデザインした宿で、「海を眺めるために建てられた宿」と聞いて、今回の宿に決めた。

海を見下ろす断崖に、ベンガラの深い紅色をまとい、美しい姿で佇んでいるその建物を前に期待感が高まる。

玄関前に立つと、格子状の窓から入る光が、美しいオブジェとなって、私達を迎えてくれる。

熊野の山奥で育った杉や、檜で組み上げられた、静かな空気の流れる楕円形のサロンで受付を済ませてから、客室に案内されるが、ここまでは静寂の中、海の気配は一切感じられない。

海星と名づけられた部屋に通され、初めて大きな窓越しに、果てしない大海原を見ることになる。

これも、建築家が計算したであろう心憎いばかりの仕掛けで、思わず、感嘆の声が出る。

小船が行き交じる紀伊水道、そのかなたに太平洋の大海原と、果てしない空がひろがっており、窓を開ければ、波音が心地よく耳に響き、気持ちよい風が頬を伝う。

何も考えずに、只、海を見続けていた・・・。

しばらくして、女房と出かけた風呂は、無味無臭の柔らかな単純泉の温泉で 海を眺めながら、湯に浸かっていると、日頃の疲れも、しだいに、ほぐれていった。

それから、客室でいただく、地元の素材を活かした夕食も、味わい深いもので好感を持つ。

時を同じくして、窓の外で展開される、自然のドラマとも言うべき、刻々と移り行く哀しいまでに荘厳な落日に魅了され、夜も深まった時、満月の光が海を照らす光景に心を奪われる。

翌日は、女房の念願だった、アドベンチャーワールドに行き、そこで、とてつもなく可愛い子パンダの姿に心癒される。

そして、そこで働く多くの若者の姿から、職場を愛する、熱い思いを感じ、改めて、その人達の思いが、気持ちのよい場を作るのだと思い至る。

私も、今、縁あって、働いてもらっている店のスタッフと共に、そのような気持ちの良い場を創っていこうと、思いを新たにする。

私も、もっと、やらなければならない事がある。

いい仕事をしなければならない!

  

  

2009 年 2 月 23 日

 時間を忘れて猪熊画伯の絵の世界に入り込んでいたが、ふと、時計を見れば、1時半を過ぎているので、美術館の中にあるカフェMIMOKA へ。

MIMOKAは、3階のテラスに面し、滝のある庭園を目の前にし安らぎのある空間になっている。

数種類ある料理の中から、ビーフストロガノフを選んだが、これが、神戸の老舗の洋食屋さんで食べる味と遜色のない味で、後で出てきた、デザートのガトーショコラ、コーヒーも美味しく、サービス、料理共に心を感じる稀有なカフェだ。

展示室に戻り、再び猪熊画伯の絵の前に立つ。

猪熊画伯は、1902年に高松に生まれ、丸亀で青年期を過ごす。

上京して、東京美術学校(現東京藝術大学)で藤島武二氏に師事。

同級生には、小磯良平画伯がおり、その頃書いた自画像は、写実的存在感がある。

しかし、私が強く心魅かれるのが、1955年、画伯が53歳になってから(今の私の歳)、日本での地位、名声を全て捨て、言葉もわからないアメリカ、ニューヨークにアトリエを構え、そこから、今までの具象を捨て去り、いったんゼロになってから、ニューヨークという巨大なエネルギーの中からインスピレイションを得、新たな抽象の世界を自ら見出していったところだ。

画伯は、1955年から20年間ニューヨークで暮らし、新しい創作に次々チャレンジしている。

私が魅了される絵のほとんどが、そのニューヨークの20年の間に書かれたものだ。

画伯は、「絵には勇気がいる」と言っている。

常識というものと戦い、未知なる世界を開いていき、常識を超えようと模索し続けた猪熊画伯に、今、強く共鳴する。

急激に変化しているこの世の中で、今一番必要なのが、今を越えようとする勇気だと思う。

画伯の絵を前にし、私も、夢を持ち、勇気をもって、新たな挑戦をしようと心に誓った。

 

  

2009 年 2 月 21 日

 久しぶりに自分の時間が取れたので、一人、愛車の一昔前のスポーツカーに乗って四国の丸亀にある、猪熊弦一郎現代美術館を目指しドライブ。今日も愛車はすこぶる機嫌も良く、空冷のエンジン音も官能的で、山陽自動車道、瀬戸大橋を快調に飛ばす。

 昼前に、美術館に到着、入り口のゲートプラザには、猪熊画伯の晩年製作の大壁画と三つのモニュメントが非日常空間への誘いを演出しており、入り口に立っただけで気分が高揚してくる。

中に入ると三階までの吹き抜け空間がまず、目に飛び込んでくる.

この美術館を設計したのが、谷口吉生氏(たにぐちよしお)氏で、同氏が後年設計したニューヨーク近代美術館(MOMA)の「光の庭」を思い起こさせる。

テーマ別記事のアメリカオーガニック視察旅の中で書いているが、三年前、長男と二人で始めてアメリカへ一緒に旅をした。

私にとって、その旅は、想像していた以上に刺激的で、未知の経験と、新たな気づき、自分の未来と、仕事の未来に光を見出し、勇気をもらい、自分の中で一つ階段を上がることが出来た。

今でも時折思い出す、生涯忘れることのないその旅の最中、立ち寄ったニューヨーク近代美術館での、モネ、マティス、ピカソの絵にも、ドキッとし、心震わせたが、実は一番夢中になっていたのが、建築だった。

MOMAは、谷口吉生氏が設計した光の庭を中心とした、広大な空間が、柔らかい光に満ちていて、やさしく、はかなくもエレガントであり、そして力強かった。

若かりし頃、建築家にも憧れた、色々な建築を見てきた私にとっても、はかなくもエレガントと感じたのは初めてのことだった。

その時から、谷口吉生氏の設計した、猪熊弦一郎現代美術館に行きたいと思ってから、早くも3年近い歳月が過ぎ去った今回、実際訪れてみて、私には、3年近い歳月が必要だったということと、今、ここに来た意味もあったということに気づいたのだった。

最初は、建築に興味をそそられ、空間を移動するたびに新たな驚きがあり、ドラマチックに展開される新たな世界の扉を開けるたびにドキドキしていたのが、いつしか、猪熊弦一郎画伯の年代別に展開される、絵に魅了されていく。

猪熊弦一郎画伯の絵を前にし、頭で考えずに、心を開いていくと、いつしか、猪熊画伯の世界に入って行き、心地の良い、非日常の時空を彷徨っていた。

      

2009 年 1 月 20 日

朝、目覚めると、鳴門の海は朝日を浴びてきらきら輝いていた。

朝風呂を浴びた後、朝食をいただきにダイニングに向かう。

窓際に用意された席からの海を臨む眺望も 素晴らしかったが、料亭古今青柳がつくった朝食の見事なこと。

最初に出てきた「十二皿の中に盛り込んだ青柳の日本料理の数々」の一品、一品、手のこんだ味わい深い料理、そして熱々ふわふわの卵焼き、美味しいおかゆとごはんの両方をいただき、体が喜んでいるのが解る。

あらためて食の大事さ、食の可能性を思いながら、しばし思索にふける。

そして、今回の旅のもう一つの目的である、大塚国際美術館に展示されている、震災で亡くなった加藤貴光君が母に宛てた、陶板になった手紙を見に行く。

お母さんの加藤りつこさんは、広島から昨年のけやきコンサートにも来てくださった。

そして、息子の貴光くんは、世界平和の為に国連で働く夢を描き、広島から神戸大学に入学したが、西宮の被災地で短い生涯を閉じられた。

実際に、貴光君の書いた手紙を目の前にして、筆跡からも彼の温かな人柄が伝わってくる。

以下、全文です。

 親愛なる母上様

あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう二十年になります。

これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく暖かく大きく、

そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。

私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。

人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・・・。

この二十年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。

そして今、私はこの翼で大空へ翔び立とうとしています。

誰よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。

これからの私は、行き先も明確ではなく、とても苦しい。‘旅‘をすることになるでしょう。

疲れて休むこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。

しかし、私は精一杯やってみるつもりです。

あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、

力の続くかぎり翔び続けます。

こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。

住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。

決してあなたはひとりではないのですから・・・・・。

それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、

また逢える日を心待ちにしております。

最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。

翼のはえた‘うし‘より

・・・・・言葉が出ない。

 彼は、今では天使になって人々を応援しているのだろう。

  

2009 年 1 月 19 日

 昨年は女房の手術、けやきコンサートなど、仕事以外の大変なことが多かった。

それから、おかげさまで年末も予想以上の忙しさで、今年に入ってからも、体の芯に疲れが残っているようだ。

女房の誕生日を前にして、プレゼントの意味も込め海を見る旅に出かけた。

 明石海峡大橋を渡り、淡路鳴門自動車道を快調にドライブして、鳴門の海を眼下に眺められる鳴門パークヒルズに到着。

ここに今回の宿、ホテルリッジがあった。

駐車場に車を止めると、すぐに、男性スタッフ、女性スタッフの歓待を受け、離れの部屋に案内される。

部屋に入るエントランスから、絵のように切り取った海がまず目に飛び込んできた。

美しい仕掛けに胸がときめく。

 部屋の大きな窓からは、淡路島から鳴門海峡、遠くには太平洋まで見渡せるパノラマが広がっており、その素晴らしい眺めを目の前に、ソファに横たわり、刻々と移り行く光と、海の表情に、時を忘れて見入ってしまう.

しばし、海を見ながら部屋でゆっくりとした時を過ごした後、別棟にある鳴門島田温泉に出かける。

日が暮れゆく海を目の前に、一人、単純泉のさらりとした肌触りの露天風呂に浸かっていると、じっくりと体の芯の部分の疲れをほぐしてくれ、心からのんびりと至福の時間を過ごす。

日が沈んだ後、楽しみにしていた夕食の時間がやってきた。

ここのホテルのすごいところは、同じパークヒルズの敷地内にある、今や日本を代表する料亭古今青柳の懐石料理も選択できるところだが、今回私は、あえて、ホテルのダイニングでのフレンチを希望した。

そのホテルのダイニングが、昭和初期に建てられた登録文化財の旧財閥の別荘を移築再生したもので、古き良き時代の文化遺産の建物に、今の時代を感じさせるモダンなデザインを取り入れた素晴らしい空間だ。

そこで、供されたフレンチが、鳴門の海の幸と地元徳島の有機栽培の滋味深い野菜とのコラボレ-ションされた、わざわざここまで出向かなければ決して味わうことの出来ない料理のオンパレードだった。

特に、印象に残ったのが、地元徳島で獲れたばかりの跳ね回っていた伊勢海老の料理、

「ロゼに仕上げた伊勢海老に取り取りの有機野菜を添えて」・・・。

思わず笑ってしまうほどの幸福感を感じさせる料理に久しぶりに出逢った。 

                                  

 

2008 年 12 月 25 日

 ケヤキコンサートも800人近くの人が来場して下さり、成功の内に無事終了した。

 前にも書いたが、けやきコンサートの前日は、女房が阪大病院で大腿骨骨とう壊死の手術で、大腿骨をチタン合金に、骨とうをセラミックに取り替えるという大手術を受けていた。

 早朝からの2時間以上に及ぶ手術から病室に戻ってきた時には、意識も戻りはじめ、話ができた時には私も少しほっとしたが、全身麻酔から覚めてくると共に痛みも、熱も出始め、辛抱強い彼女が苦痛に顔をゆがめながら、痛みと闘っている姿を横で見ているのは辛かった。

私は、只、女房の横に居てやることしかできなかった。

 翌日も女房のことが気がかりだったが、けやきコンサートも成功させなければならないので、当日の女房の付き添いは、2人の息子達に任せることにした。長男は、大阪の商社で働いており、時々家にも帰ってくるのだが、次男は、東京で働いている為になかなか帰ってくることがなかったが、今回は、話を聞いて駆けつけてくれたので、女房も2人の息子が傍にいてくれるので安心できただろう。

 私も翌日、病室に駆けつけると、予想していたよりも顔色の良い女房の顔を見て、ほっとする。

横にいた次男からは、東京で彼が入りたかったプロダクトデザイン事務所から声をかけてもらって、そこで働き始めたことを聞き、デザイナーとしての一歩が始まった彼の今後の奮闘を陰ながら祈る。

 頑張り屋の女房は、入院中のリハビリも頑張り、予想よりも早く杖なしで歩くことができた。

入院中の女房のいない家で一人きりの食事、そして、女房の抜けた店での仕事、仕事が終わってからの炊事、洗濯、掃除などで、彼女の存在の有りがたさも身に沁み、疲れも、ピークになろうかという時に、女房は退院し、私は、喜び、そして胸をなでおろす。

 それから女房は少しずつ仕事にも復帰し、本日は、クリスマス。

そして今年最後の店の定休日、昼前までお互いの仕事を終えてから、一緒に買い物に出かける前に、彼女は、胸元を指差し「これ、憶えている?」と私に聞いてきた。

そこには、私が36年前の16歳のクリスマスの日、バイトのお金を貯めて、何日か昼飯も抜いて、彼女にプレゼントした思い出深い、ターコイズブルーのペンダント が光っていた。

 

2008 年 11 月 17 日

移植保存された、けやきだが、昨年あたりから、かなり辛そうにしている。 

そのけやきの治療費をつくるために、3回目のけやきコンサートを決定してからも、 人は集まってくれるのか、ずっと心配していた。

11月15日、けやきコンサート~見守るために~ 当日、雨模様の予想が、天が味方してくれたのか、太陽が顔を見せ、青空になった。

文化会館大ホール前には多くの人が集まり、開場と共に、入場者が入ってきた。

そして、20分経っても続く人並みを見て胸が熱くなる。

コンサートが始まる頃には、800人入る大ホールがほぼ満席になり、そして、けやきコンサート~ 見守るために~ が始まった。

けやきの物語が終わり、岩田さんのパンフルートの音が響き渡ったその時、私は、なぜか9年前の西谷酒造さんの酒蔵広場で行われた、多くの人達の協力で実現した、手づくりの第一回けやきコンサートの色々な場面を思い出し、心震わせていた。

ヤドランカさんの、なぜか胸を打つメロディ、心に届く歌声、それが、岩田さんが奏でるパンフルートの哀愁漂う音色と調和し、美しい音楽世界が生まれ出ている。

聴衆も、私も、その心に響く演奏に魅了されコンサートは終盤を迎える。

それから、挨拶の為、立った壇上で、ホール一杯に満席になった人々を目の前に、感激し、その人達に感謝する。

挨拶の後のアンコール曲を舞台袖で聴きながら、前日の14日、阪大病院で、大腿骨骨とう壊死の手術を受けて、入院している女房のことを思う。

 

そして、ラストのアベ・マリアが流れてきた時、抑え切れない感情が湧き、涙が止まらない。

 

 

  

2008 年 11 月 7 日

パンフルート奏者の岩田英憲さんを招いて、西谷酒造さんの酒蔵広場で、けやきコンサートを開催しようと決定する頃には、私の前に、必要な人が、必要な時に現れてくれるようになり、困難と思われていた数々の壁を乗り越え、開催日も10月30日に決定。

 けやきコンサートのポスターの絵は、みどりちゃんが苦心の末に描き、メッセージは私の頭の中に浮かんだ言葉、「あなたは、遠い昔から、私たちを、いつも見守りつづけてくれました。私たちは、今あなたに聴いてほしい音楽があります。出逢ってほしい人々がいます。」に決まり、字は、イヌイットのマスターの福本さんが書き、コンサートで朗読する物語を、西村さんと、伊藤さんが考え、というように、仲間がひとつずつ手づくりしながら、コンサート当日を迎えた。

 コンサートは、夕暮れから始まり、400人を超える人々が、コンサート会場になった酒蔵広場に入ったとは思えぬ静かさの中で始まり、伊藤さんの詩情漂うけやきの物語の朗読の後、大きな風が吹いたかのようにパンフルートの音色が響き渡った。

その瞬間、全身に電流が流れたようなショックを受け、頬には、熱いものが流れる。

 会場に入れない人もいた、その人達は、ライトアップされたけやきの下でパンフルートの音に聴き入っていた。そして、スタッフ、ボランティアとして参加してくれた多くの人達も会場の外で流れてくるパンフルートの音色に耳を傾けていた。

 コンサートの後、けやきの運命は大きく変わった。

 移植保存と言う形に!

     

2008 年 10 月 20 日

児童文学作家の西村恭子さんに、お会いした時、私はなぜか、この人には解ってもらえるのではと思い、けやきが道路拡張の為、誰にも知られずに切られることを話した。

 私も西村さんも道路拡張に反対するのではなく、けやきに敬意も、感謝の気持ちも示さず、まるで秘密事のように切って燃やされてしまう前に、けやきに私たちが、してあげられることはないのかと何度も話し合った。

 そうした中で、自然と、けやきのためのコンサートをしようという案が浮かんだ。

そして、多くの人に、こんなに長い年月、人々を見守り生きてきた、大きくて美しい、 けやきがあったことを知って欲しいと願った。 

 それからコンサートに、誰に出演してもらうのか話していた時、西村さんからパンフルート奏者の岩田英憲さんの名前が出た時、私は、驚きを隠せなかった。

 実は、前にも書いたが、私は、自殺まで考え悩んでいた時期があった、その当時、テレビから流れてきたメロディに心が動かされ、そして心が癒され、気持ちが安らぐことがあった、そして、その曲が聴きたくて、一週間待ち望んで、心震わせて聴いていた音楽が、NHKの新日本探訪のテーマ曲であり、美しい音色のパンフルートを演奏されていたのが、岩田英憲さんだったのです。

               

  

2008 年 9 月 29 日

けやきに会い、「君の味方になるから」と言った数日後、
店に掛けていた、立山の写真を真剣に見ている女性が現れた。
そして、私に、この写真誰が撮られたの?と、聞いてきた。
私が、昨年の秋撮りました。と答えると、彼女は、
「この写真に、透明な空気を感じる」とつぶやいた。

 

その前の年の秋、アトピーの悪化で、好きな野球も断念し、目標を失い、目の輝きを失った長男と一緒に立山縦走の旅に出た。
 私自身、当時早朝から、深夜まで働き、休みの日は、安全な食品を作っている生産者を訪ねて各地飛び回っていたが、店の赤字は、とどまることなく、かなり疲れていた。
 
 その日の、立山から見た、富山湾方面に沈んでいく夕日は、生涯一番とも言える素晴らしい光景で、自然が織り成すドラマに言葉もなくし魅せられる。 
 長男と同じ時間を共有し、二人で刻々と移り行く情景を目の前にし、日頃の疲れも吹っ飛び、「このような美しい星に生まれて、こんな経験をさせてもらっている私は、幸せ者だ」と思い、なんともいえない幸福感と、安らぎを感じた。
隣で見ている長男も、何かを感じているようだ。
 翌日の立山縦走も、かなりきつい山登りだったが、美しい景色とともに思い出深く、長男との、一生忘れえぬ旅となった。
旅から帰ってから、明らかに長男の目に輝きが戻り、私も、必死に仕事に打ち込んだ。
 その頃、一人の女性が来店し、「やっと、私が探していた店を見つけた」と、私に言ってくれた言葉を聞いて、涙が溢れ出る。

 

私の撮った立山の写真に透明な空気を感じると、言われた女性は、児童文学作家の西村恭子さんで、彼女との出会いが、けやきコンサートに繋がることになるとは、その時は、まだ知る由もない。

 

 

2008 年 9 月 19 日

 9年前の5月の初め、私は、小さい頃、木のぼりをして遊んだ西谷酒造の樹齢200年とも言われるけやきに会いに行く決意をする。

 私の店が道路拡張で収容され、建て替えた後に、県の土木担当の人から、けやきも切られることを聞かされる。
私は、その人にけやきは切られてから、どうされるのかと聞くと、
「燃やして処分する」と言う。
さらに、「私たちは、木のたたりが怖いので、下請けの下請けに切らせる」と言う。
 
 私は、いてもたってもいられず、西谷酒造の重い門を押して、けやきに会いに行く。
日が暮れる直前の風の強い夕方、けやきはその場所で寂しそうにたたずんでいた。
目の前のけやきが来年の1月に切られるのを、知っているのは工事担当者と、西谷さんご夫妻、そして私とけやきだけだろう。そして、だれにも、知られずにこのまま切られて燃やされてしまうのは、あまりにも、けやきがかわいそうだ!
 風がますます強くなってきた、けやきの枝も大きく揺れ動いている。
まるで、人間が信じられずに、私にも、近づくな!
とでも、言っているようだ。
  
 私は、近づいて、幹に手を当て、
「私は、小さい頃、あなたに登り遊ばせてもらっていた者です、私は、あなたの味方ですから」と心の中でつぶやいた。
 すると、急に風が止み、けやきの揺れもおさまった。

 それからです、私の前に必要な人が現れだしたのは!

 

2008 年 9 月 11 日

 最近一ヶ月は、仕事も忙しく、トラブルもあり、自分の自由な時間が取れず、かなり疲れていたし、すこし、いらだっていた。
 自然の中に行きたい!
その時思い浮かんだのが、波賀町の山であり、川の情景だった。
仕事を終わらせ、(本日、店は休んでいるが私と、女房は仕事がある)
私は一人波賀町へ、車を走らせる。
思い起こせば、波賀町に行くのは、あの日以来の事なので、12年振りということになる。

 12年前の私は、完全に自分自身を見失い、自殺まで考えていた。
その一年前には、人生の絶頂のように思っていた、私の人生が、あることがきっかけで、坂道を転げ落ちるように、変わっていった。
私は、嘆き、悲しみ、怒り、そして自分を見失った。
そんな私の周りから、一人ずつ人が離れていき、親しい友も去った。
 その時の私には、自分自身しか、愛せなかった。
周りの人も、家族まで、私は、見えずにいた、私は、感謝することを忘れてしまっていた。

 自殺を考えるようになってからは、夜が眠れなくなっていく。
酒の勢いで、すこしは眠るのだが、すぐに、目が覚めて、夜が明けるのを、悶々として待つ。
私は、救いを本に求め、精神世界、哲学、宗教、今までは、手にすることもなかった本を読みあさる。

 あの日、私は、夢の中で、3階のベランダから飛び降りて自殺する。
その瞬間、私は、目が覚め、そして、その時、隣にいつも、女房がいてくれて、隣の部屋に、二人の息子がいてくれたことに気づき、涙する。
 
 そして、その日は、波賀町のくるみの里で、私の大好きな、河島英五の野外コンサートが夕方から行われるを知り、行ってみようと思う。
久しぶりに、キャンプの準備をして、車を、波賀町へ走らせる。

 あの日の,河島英五のコンサートは一生忘れることがないだろう。
コンサートが終わり、誰もいなくなったくるみの里でテントを張り、夕食を、家族で一緒に食べながら私は、忘れていた笑いを取り戻す。
 夕食が終わり、私は家族から離れた草原まで歩いて行き、そこにあおむけに寝ころぶ。
 空には、満天の星、川のせせらぎ、虫の鳴き声、いくつもの流れ星。
どれほどの時間が経ったのか、私は、心の底から安らぎを感じ、今まで悩んでいた事がこの世界では、いかに小さな事だったのかを知り、この瞬間に感謝し、そして、ここに、生かされていることを感謝した。

 その時私は、「生かされているうちに、そして、活かされているうちに。」と、強く思った。

 その後も、3年間で、2000万を超える、赤字を出し続けるのだが、もう、うろたえることはなかった。
 今では、河島英五さんも帰らぬ人になってしまったが、あの時のコンサートの感動と、あの日の感謝の気持ちは忘れない。

 今日、12年振りに、波賀町のくるみの里、赤西渓谷などを訪れ、当時を思い出した。

 今の私の原点だ!

 

2008 年 8 月 16 日

 8月16日、本日念願の、ホームページリニューアルオープン。
8月16日と言えば、36年前のあの日、嫁さんと初めてデートをした日。
嫁さんとは、当時高校2年の同級生で、4月に同じ組になったのだが、彼女の存在が気になり出したのが、7月に入ってからのことで、なぜか、寂しそうな後ろ姿に魅かれた。
夏休みの南九州一人旅の途中、彼女の存在が私の心の中で大きなものになっていることに気づき、帰宅後、思い切って彼女に電話をかけて8月16日に映画に誘った。

 待ち合わせをした姫路駅、彼女は約束の時間に、私の目の前に、微笑みながら現れた。
夏休みのバスケのクラブ練習で真っ黒に日焼けした肌に、白のミニスカート姿は、当時の私には眩しかった。
面と向かって話しをするのは、その時が初めてで、ドキドきしたのを憶えている。
そして、映画を見に山陽座へ、その時見た映画が「男はつらいよ柴又慕情」で、寅さんのマドンナ役に吉永小百合さんが始めて出演した、あの名作である。
映画を見終わると、心の中に温かいものをもらったような気分になった。

 それから、近くの食堂で幕の内弁当を食べてから、姫路城に行き、そこで色んな話をした。私は、旅の話、彼女は、クラブ活動や、友達の話、天守閣で、私は、北海道の牧場で働くのが夢だと話し、それから、

「何年後か、僕は君を嫁さんにするよ」と、つぶやいたらしい。

 あの日から、もう36年の月日が経ったのか!
月日の経つのは、哀しいほどに早い。

2008 年 8 月 7 日

KASUKE山荘さんの、独自のインテリア、料理のセンスはどのようにして生まれるのか?
 オーナーの話では、毎年3月は、アンティークの買い付けに、1ヶ月ほどロンドンに出掛け、ロンドンを拠点にモロッコなど各地を旅されているとの事。ホテルの入り口にギャラリーも経営されているので、仕事を兼ねてということになるのだが、その旅で出逢う美味しいもの、素敵な人、美しい物、その中で新しい発見があり、独自の感性が生み出されていくのだろう。
 ギャラリーで、真っ赤なホーローのジャグに一目惚れして購入、オーナーの話では、1920年代のものということで、今は、店で花器としてレジの近くに置いています。

 日常を離れて旅に出る。
その中で、新しい気づきがあり、自分でも驚くことがある。
36年前、16歳の夏、初めて一人で、南九州を2週間かけて旅した時、
自分の心の中にいる一人の女性の存在に気づき、旅から戻ってから、思い切って彼女にデートを申し込んだ。その彼女が今の女房です。

 若い時は、旅をする度に、勇気をもらい、弱い自分を変えてきた気がするし、どうしようもなくなった時も、日常を離れて旅をすることにより、出口を見出してきたように思う。

 これからも、私の人生、私の旅は続いていくが、勇気をもって、次の人生、次の旅を歩いていきたい。
 

 

2008 年 8 月 1 日

今夜の宿泊客は、私達二人だけなので、誰にも気兼ねすることなく、まるで自分の別荘のようにくつろいでしまう。
 夕食までの時間を、好きなジャンセンのリトグラフが置かれたリビングで、好きな本を読みながら、ゆっくりと流れていく時間を過ごす。

 楽しみにしていた夕食の時間になり、オーナーがロンドンで買い付けたアンティークが絵になるダイニングスペースに案内された。窓の外は、ちょうど日が暮れて来て、暮れなずむ情景が美しい。
 
 白ワインで乾杯し、わくわくしながら、料理を待つ。
まず、出てきた真鯛の昆布〆めカッペリーニ仕立ては、これから始まるシンフォニーのまさしく序章であった。
 続いて出てきた料理は、私の好きな木工作家の三谷龍二さんの木の器に盛られて出てきた、トマトとなすのモッツァレラ溜まり醤油風味で、官能的なまでの美しさと、奥深い味にうっとりとしてしまう。
 次々と出てくる料理は和の素材に、オリーブオイル、チーズ、クリームなどの洋の素材を上手く融合させ、時には、フレンチ、、イタリアン風に、アジア、アフリカの風を感じさせ、軽やかさのなかにも、しっかりとした力強さを感じる、ワインに素晴らしく合う、まさしく、KASUKE料理と呼べるものだ。
 
 ワインの酔いも程なく回り、刺激的なまでの料理と、心地よい空間、オーナーの温かなサービス、全てが気持ち良く、ゆったりと流れてゆく時に酔いしれた。

 

 

2008 年 7 月 31 日

 5時過ぎ迄、オーブスさんで講習を受けてから、今夜の宿KASUKE山荘さんへ、愛車を飛ばす。青木湖の近くの山の頂に目指す宿はあった。ここも、長年泊まりたかった宿で、オーナーの三谷御夫妻が、以前白馬村で天気図と言うペンションをされていた25年位前、男友達と、二度泊まったことがある。白状してしまうと、当時私は、16歳の時見た白馬連山の美しさが忘れられず、白馬に住む手段としてペンション経営を考えていた。当時、ペンションが新しい旅のスタイルとして脚光を浴びており、白馬にも多くのペンションが出来ていたが、その先陣を斬っていたのが三谷御夫妻が経営されていた天気図だったのです。
 当時、真っ赤のワーゲンゴルフで白馬目指して中央道をぶっ飛ばしていたのが、つい、この前のように思い出される。
 その後、色々な理由で、ペンション経営は諦めるが、振り返って考えてみると、私には、今のオーガニックスーパーが天から与えられた仕事だと、今は思う。

 KASUKE山荘さんは、1995年に三谷御夫妻が、年齢に見合った暮らしを考え直すことから、山の頂に住まいを兼ねた4部屋だけのホテルなのだが、ダイニングスペースが8箇所もあるという、食にもこだわった宿なのです。
 オーナーの三谷御夫妻にお会いするのは、25年ぶりという事になるのだが、どちらも、若々しくて、そして、極上のワインのように、素敵に歳を重ねておられる。
 私達も、御夫妻のように素敵な歳を重ねるのには、これから先どのように生きていていけば良いのか思いを巡らす。

 

 

2008 年 7 月 30 日

 白馬のオーブスさんの本社に約束の時間に到着。
あいにく、白馬の山並みは、上の方は雲に覆われて見えないが、それでも、本社の裏から、山の方を眺めているだけで気持ちがいい。
 出迎えてくれた、岸社長はじめ、スタッフの人々も、人柄が表情に表れていて、信頼できる人達だと感じた。
 さっそく、岸社長の講義が始まり、水とは?と言う話から始まった。
地球の表面積の70%は海、そして、人の体重の70%以上は水で、
動植物,天然鉱石から化学合成物質まで、地球上のあらゆる物質には、
水が含まれており、水の存在なくしては、形あるものとして存在できないし、その水がどれだけ安定しているかが、全ての鍵を握っているらしい。
 その鍵を解くために、岸社長は、震災後の神戸から、白馬に移り住み研究を重ねて、水に密度があり、安定している水、オーブス高密度安定水を開発された。詳しく知りたい方は「オーブス」で検索して欲しい。

 当店で、オーブスの数多くの製品のなかで、少しずつお客さんの支持を得ているのが細胞浸透化粧水の「夢美肌スキンベースウォーター」と、細胞保水美容液「夢美肌パーフェクトエッセンス」、肌年齢が、すぐ10歳若返る、と評判の商品で、実際に、女房が使ってから、私がはたから見ていても、確実に効果は上がっているし、女房もその効果を実感している。私自身は、オーブスの記憶水DC3を添加した水を、一日1リットル以上、できれば2リットル飲むようになってから、明らかに体調は良いし、体が軽く感じられる。
  
 どうやら、良い水が、人の健康と、美容の大切な役目を持っているようだ。

 

 

2008 年 7 月 29 日

 ぐっすり眠れた翌日、温泉の大浴場へ。
早朝の空気の中、露天風呂にゆっくり浸かって今日のプランを練る。
昼1時に白馬のオーブスさんに到着していればいいから、道中の時間を
差し引くと、2時間近く、時間が取れるということで、以前旅した、
美術館巡りの続きということで、安曇野のジャン・ジャンセン美術館に寄ることに決定。
 
 すぎもとの地元の食材を活かした朝食を堪能してから、宿を出発。
今日も愛車は快調に信濃路を駆け巡り、安曇野のジャン・ジャンセン
美術館に到着。
 
 ジャンセンは私の好きな現代作家の一人であり、我が家の居間の暖炉の上に掛けられているのが、ジャンセンのリトグラフで、1970年代の「イタリアの思い出」という、フィレンッツエ、あたりの教会と、前の青空市を描いている作品で、昨年、長男と二人でフランス、イタリアのビオ・マーケットを視察する旅の直前に、稲美町のギャラリー、天心さんで偶然目にし、ひと目見て気に入り、その場で購入したものです。

 美術館に入ると、まさしくジャンセンの独自の哀しいまでに美しい
世界が広がっており、時間が止まってしまった・・・。
 ジャンセンが描いた、生物画に、裸婦に、ダンサーに、魅了され、
時間の経つのを忘れてしまう。
 特に2階で開催されている、ダンサー展の、ダンサー達の、華やかな舞台に立つまでの、レッスン場での、迷い、悩み、悲しみを抱えながら、自分自身と闘っている姿を捉えている絵からは、彼女達の心情が伝わって来るようで、胸が痛い。

 その中の一人のダンサーに、強烈に惹きつけられてしまった。
やばい、その絵の彼女に恋しそうだ!

 

 

2008 年 7 月 28 日

11時まで仕事をこなし、後はスタッフにまかせて、信州美ヶ原温泉を 目指して愛車を飛ばす。
昨年12月に手に入れた愛車は、官能的な空冷サウンドをたなびかせ、気持ちよくスピードを上げていく、名神高速も、第2名神が出来てから交通量も減り、特に大型トラックが少ないので予想以上に走りやすい。
中央道に入ってから、ますます快適になってきた。
やっとの思いで買った最初の愛車、中古の真っ赤のワーゲンゴルフ1に乗って信州白馬を目指して走ってから、30年近く経っているが、その後、何度この道をワクワクしながら、信州を目指し走ったことだろう。
一人で、友達と、そして子供たちと家族で・・・、それぞれの旅が、その時の思い出と共に頭の中を駆け巡る。

5時頃、今夜の宿、美ヶ原温泉の旅館すぎもとに到着。
ここも、信州随一の美食宿として、人気のある宿で、そして私の好きな ジャズの聴けるバーもあるらしい。
 指定させてもらっていた部屋、アルプスの間で荷物を紐解いてから、
さっそく、檜の貸しきり温泉風呂へ、500キロ近く、高速道路を飛ばしてきて程よく疲れた体に、まったりした湯が心地よい。

温泉の後は楽しみにしていた夕食!
まずはビールで乾杯し、信州の地元の食材で展開される、美食三昧の、美しい、すぎもと独自の料理に魅了される。極め付きは、店主自ら打った蕎麦の、香り高く、滋味深い味。

夕食の後は、バーで時間を過ごす。
アメリカの名機マッキントシュのアンプで鳴らされる、JBL4343 が醸しだす音楽は、25年前、私自信、鳴らしていたスピーカーという ことで、懐かしくもあり、地酒の酔いも手伝い、おもわず、ほろっ、と してしまったのです。

 

 

2008 年 7 月 27 日

 当店で販売している商品で少しずつ着実に、お客さんの支持を得ているのが、信州白馬に本社を置く、オーブスの化粧水「夢見肌」で、そのオーブスの岸社長が5月に当店に来訪された時、ぜひ、白馬の本社に来て下さいと言う要望に答えるべく信州白馬に出掛けました。

 白馬と言うと思い出されるのが、36年前の16歳の11月の初め、九州阿蘇の修学旅行から帰ってから、中間テストを終えた翌日に、信州へ旅立っていたのです。友達に、担任の先生には、風邪をひいてしばらく欠席すると言ってもらったのだが、担任の先生は「三好は今、どこを旅しているのか?」と彼に聞いたそうだ。
 当時、私は学校を終わってから加古川のお好み屋さんでバイトをしており、お金がたまれば、ぶらっと旅に出かけていた。

 松本駅で大糸線に乗り換えてしばらく、列車の窓から見えてきた、雪を被った白馬連山の神々しいまでの美しさは、36年経った今でも、なぜか鮮明に憶えている。

 その日は、標高1800メートルの八方池山荘に、日が暮れる直前に到着し一泊、翌日に、標高2060メートルの八方池を目指して歩き始める、誰一人合わない道中、心細い気持ちより、周りの雪を被った山々の美しさに感動しながら歩いていたのを憶えている。

 目的地の八方池に着いた頃から雪になってきた。標高2060メートルの八方池は静かに、そして美しく目の前に佇んでいた。
 
 しばらく、その美しい光景を前に時間を過ごしていたのだが、雪が激しくなってきた、視界も悪くなってきている、急いで下山しなければ、やばいことになる、もちろん本格的な登山の経験もなければ、装備もしていない、靴は、いつものスニーカーで雪で、滑ること、滑ること。
 文字通り、滑り落ちながら、下山してきたのだが、若い時は、随分とこのような無謀な旅を数多くしてきた。
 この時の信州の旅も、今思い起こせば、なぜか甘酸っぱい思い出と共に、懐かしく、36年経った今も決して忘れることが出来ないのです。

 写真は、36年前に撮ったものです。

 

 

2008 年 6 月 28 日

朝、目が覚めると、夜中ドシャブリだった雨が上がっていた。
朝食前に露天風呂に入る、雨に濡れ、輝いている木々を眺めながら、いっせいに鳴きだした鳥たちの声を聞きながらゆっくりと湯船に浸かる、今日もいい日になる予感がする。

 朝食をいただきにレストランへ、昨晩とおなじ席からは阿蘇の山並みが眺望でき、雨上がりで、雲の合間が青空に変わっていく様子を眺めながら、地元の野菜たっぷりでヘルシーな朝食をいただく。

 朝食を済ませ、すこし近くを散歩してから、ホテルをチェックアウト。 ココもサービス、料理も良く、ロケーションが抜群、そして最高の露天風呂があじわえる稀有な宿だった。

 ホテルを出てから九重高原までドライブ、阿蘇の山並みが望めるビューポイントを色々廻ってから、阿蘇駅までやまなみハイウエーを雄大な景色のなか快適に車を走らす。

 阿蘇駅に着くと素敵なカップルが、 アメリカ人の老夫婦が駅舎の中の木の椅子に腰掛けて列車を待っていた、ラフな服装、荷物も鞄一で、二人共凛とした佇まいが私にはとても心魅かれた、たぶん、それなりの仕事をされていた方でしょう、仕事もリタイヤされ、世界中の色んな所を二人で旅をされているのでしょう、私の最終目標です。

 湯布院から阿蘇の旅は私にとって魔力的で、今回の旅も忘れることの出来ない旅となるでしょう。結婚30周年ということで贅沢な旅をさせてもらったが、多くの刺激を受け、学ぶことも多く、それらをこれからの私の仕事に活かせていこうと思う。

 かわいい二両編成の列車が入ってきた、これで阿蘇ともお別れだ。
それにしてもいい旅だった!竹輪を片手にビールを飲みながら、阿蘇の山並みを見続けた。

 

 

2008 年 6 月 27 日

 露天風呂をゆっくり楽しんでから、夕食をいただきに、本館のレストランへ、窓際の雄大な景色が見渡せる席に案内される。本日は私たちの他には、二組の宿泊客しか泊まっていないようだ。

 昨晩は、ビールで初めて地元の冷酒に続けたが、今晩は趣向を変えて
シャンペンから初めて、白ワイン、そして赤ワインと繋げてみよう。まずはグラスシャンペンで乾杯、露天風呂でほてった身体に、冷えたシャンペンが合うんですな~これが~。

 料理は地元の食材を上手く生かした肩肘張らない料理で、八寸盛りから、しま鯵の造り、そして佐賀県呼子産の紋甲イカのステーキ白子添えで、ブルゴーニュ産の白ワイン、マコンヴィラージュと合わせてみると、爽やかでキリッとした酸味が紋甲イカのステーキとベストマッチ。 続く長崎県の壱岐産の壱岐牛の炭火焼きには、ミディアムボディの赤のグラスワインと合わせ、完璧なフィニシュ!
 心地よいほろ酔い気分を味わいながら、地元のお茶のアイスで最後を締めくくり大満足のディナーでした。

 

 

2008 年 6 月 26 日

 無量塔を後にしてから、由布院駅で、レンタカーを借り、やまなみハイウエーを阿蘇方面へドライブ。

 実は嫁さんと阿蘇に来るのは、36年ぶりのことで、高校二年の修学旅行で秋に、同級生として一緒に来て以来なのです、その年の夏に付き合いを始めていたので、その旅は色々な事柄が思い出として残っており、あれから、もう36年の月日が流れたのかと思いを巡らす。

 確かに一緒に過ごした36年の歳月には、色んなことがあった。いいことも、悪いことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、辛かったことも、それなりにあった。
しんどい思いをさせたことも多かったのではなかろうか、今やっと、私も落ち着いて、仕事も順調に行きだした今、また、こうして阿蘇に来れたことを幸せに思う。

 やまなみハイウエーは雨の為、周りの眺望はあまり望めず、早めに今夜の宿、瀬の本高原に2年前オープンしたリゾートホテル、界ASOへ、ここも私が泊まりたかった宿で、無量塔同様に嫁さんには、どんな宿か教えていない。

 超モダンなロビーでお茶とお菓子をいただいてから少し歩いて離れの部屋に案内される、部屋に入ってすぐ、この宿を選んだのは正解だったと確信した、嫁さんも気に入っているようだ、無量塔ほど研ぎ澄まされた空間ではなく、ゆったりと自然豊かな景色をリラックスして楽しむような空間だったからです。特に素晴らしかったのは、居間の奥にあるジャグジーの内風呂と、それに続く露天風呂で、露天風呂の方は源泉賭け流しの温泉でちょっと硫黄臭のする、肌にすべすべする湯はくせになる。
 湯の温度もベストで、雨しぶきを顔に受け、自然豊かな中でゆっくりと湯に浸かって夕食までの時間をのんびり過ごす。
今まで体験した露天風呂の中でも最高の湯です!

 

 

2008 年 6 月 25 日

 翌朝、昨日から降り続いている雨の中、朝風呂に入る、
(ガラスの天井がついているので雨はかからない)
雨の音を聞きながらの朝風呂もオツなものだ。それから母屋の紫扉洞で朝食をいただく、案内された個室は大好きなジョージナカシマの家具にアンティークの欧風家具、そこに昔のロイヤルコペンハーゲンの食器が置かれ不思議な静けさの感じる落ち着いた空間だ、運ばれてきた料理もシンプルだが滋味深い味わいで、このしつらいと料理がマッチしている。
 
 朝食の後はTan’barで美味しいコーヒーをいただく、夜は枯れたあじわいを感じるスイングジャズが流れていたが 朝は、クラシックが流れている、窓は開け放れているので雨の音も聞こえるのだが、低音はきわめてゆっくりとただようように感じられ、昨晩は分からなかったウエスタンのスピーカーの凄さを思い知る。
いや~!いつまでも聞いていたくなる音だ!貸切状態だったので一時間近くいたのだが、クラシックに雨の音のハーモニーがことのほか、けだるさをともなう気持ちよさで、雨の湯布院で良かったと思ってしまった。
 
 チェックアウトの後は無量塔がプロディースする空想の森美術館の中へ、音をテーマにした絵画や立体オブジェを観たが、韓国の作家リーウーファンの絵画が強く印象に残った、その後二階にある読書室で気になる本を色々見つけて一時間ほど時間を過ごす。
ここの蔵書を読んでいると無量塔のオーナー藤林さんが、いつ、何を感じ、いつ、何を求めていたのかが垣間見えてきた。

 本当にいい宿だった、温かみを感じるサービスも最高だった、しかし、13年前、たった四室で始めたこの宿をここまでにしてきたのは、間違いなくオーナー藤林さんが理想を夢みつつ、それに向けての熱い思いがあったからだろう、無量とは仏教用語で計り知れないの意味、いまも藤林さんは無限の夢を見て、そして挑戦しているのだろう。
無量塔を去る時、私もそろそろ次の夢を見ることにしようと思った!

 

 

2008 年 6 月 24 日

ドラマチックな夕食のあと宿泊者専用の談話室で、美味しいコーヒーのサービスを受け、少し備え付けの本を読んだ後、いよいよ憧れのTan’s barへ。
 今回由布院御三家と言われている名宿の中から無量塔を選んだ理由がこの母屋にあるバーの存在だった。
 バーに入ると、仄かな明かりに浮き上がるバーカウンターの奥の空間でお目当ての1920~1930年頃のアメリカのカーネギーホールと同じ劇場用大型スピーカー、ウエスタンが優雅にスイングジャズを奏でている、うん!『枯れたあじわいのいい音だ」
ル、コルビジェのソファーに身を委ねてモスコミュールを味わいながら
<またここのカクテルが美味しいんですよ!>
しばし贅沢な時間を過ごさせてもらった
しかし、この美しい空間をつくったオーナーの感性には脱帽する。

部屋に戻りもう一度露天風呂に入り「またまた極楽」

風呂上りにビールをグイ プア たまりませんな!

 

 

2008 年 6 月 23 日

 夕食の前に部屋の露天風呂へ、湯布院の源泉賭け流しの湯はとても軟らかく、雨に濡れた木々を眺めながら、ときおり聞こえる鳥や虫の美しい声を聞きながら何も考えずにひのきの湯船に浸かっていると、いつも忙しい日々で疲れている身体と精神が次第にほぐれていくのが実感し思わず「はー極楽、極楽」これだから温泉旅はやめられない。

 夕食は部屋出し、畳中央部が夕食時にはせり上がり、掘りごたつ式になる趣向で、そこで供された料理も想像を超えるものだった。
 まずは風呂上りということでビール、そこで一言、結婚30周年ということで、短く感謝の言葉、そして乾杯!『かーシミワタルー」!   先付に出された地のタコの炭火焼きも美味かったが、そこに添えられていた空豆の美味さに衝撃、それから、次々タイミング良く出される料理は地の食材を使い、それが無量塔流にアレンジされ、器、盛り付けも新たな世界に挑戦している気概が感じられ刺激をうける。
 黒豚の薬膳鍋に続いて出された豊後牛のもろみ焼き花ズッキーニ添えで完全にノックアウト

 

 

2008 年 6 月 22 日

 この6月で無事?結婚30周年!どこかに記念旅行にでも行こうかということで、湯布院から阿蘇への二泊三日の温泉旅に出かけてきました。
 
 まず湯布院の憧れの宿、山荘無量塔(ムラタ)へ到着、古民家の土間風のロビーから予約時に指定させてもらっていた離れの部屋「汲」へ、部屋に入った瞬間に和と洋の絶妙に調和しながらも新たなデザインに挑戦した空間に思わずうなってしまった、ムダな物はそぎ落とし、琉球畳に鉛の床の間、そこに北欧のアンティーク、李朝の家具を置き、寝室は京都の唐長さんの唐紙があしらわれ、奥にはひのきの露天風呂が控えている、今までも色んな宿に宿泊してきたが、部屋に入った数分でここまでドキドキさせてくれた宿は初めてだ。
 
 この無量塔から、オーナーの強い美意識と新たなことに挑戦しようという思いがひしひしと伝わってくる、私が今回ここを選んだ理由も此処で何かを感じ取ることだったのです。
 

 

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