
夕焼けの美しい町に一本のケヤキの木があった。
樹齢百五十年とも三百年とも言われるその木は古い造り酒屋の庭に立ち、
長い年月、道行く人の目印になった。
時代は移った。
側を流れていた川は方向を変え、橋が消え、工場がやってきた。
交通量を予測した道路計画は四十年近く前、机の上で決まった。そして拡張工事は始まった。
ケヤキは計画ラインに掛かって切られることに決まった。
ケヤキの側で生まれ、木と遊んだ男性はケヤキの味方になりたいと、造り酒屋の門を開いた、
その後から、多くの人がケヤキの元を訪れた。
ケヤキは、最後の季節を伸びやかに茂り、涼やかに辺りに風を送り続けていた。
そしてドラマは始まった。
<1999年7月5日付>
高砂市米田町にある一本のけやきの話をしたい。樹齢百年にはなるか。古くから続く造り酒屋の庭で、枝を大きく広げて大地を見下ろしている◆その大樹が今年に限りで姿を消す運命にある。横を通る県道の拡張工事にひっかかるからだ。周囲から惜しむ声があがった。近くで食品店を営む三好一郎さんは、木の鼓動を感じて育った。友人らと酒屋当主の西谷真治さんに「残してほしい」とお願いにいった。◆西谷さん自身悩んだ。自分が生まれる前から息づく生命を断ち切るのは忍びない。移植も考えたが、難しいという。移植して枯れていくのを見るのはよけい耐えられない。道路の計画変更はできないといわれた。つらい決断をした。「けやきに謝らなきゃならん」◆苦渋のにじむ言葉に、三好さんたちは気持ちを察した。では、せめて何が出来るか考えよう。集まりに加わったか加古川市在中児童文学の西村恭子さんは、子供向けの本「いっぽんの木」を紹介した。東京で十年前。マンション建設で切り倒されたけやきの話だ。◆残念に思った住民らは、木片をもらい受け、机やいす、楽器などをつくった。葉っぱで草木染めをした人もいた。けやきは人々の心に生きた。この話に、西谷さんも少し慰められた。同じ生き物として、最後までいとおしみたい、と◆さっそく秋にけやきと出会うコンサートを開くことが決まった。多くの人に会ってもらい、思い出をつくろう。みんなの気持ちが伝わるのか、米田のけやきは「ありがとう」というように、黙々と葉を茂らす。自然を守るのはなんと難しいのか。
<1999年9月19日付 >
この欄で七月初めに取り上げた、高砂市米田町にある一本のけやきの「その後」について伝えたい◆作り酒屋の西谷真治さん宅に残る樹齢百年ほどの大樹だ。県道の拡張工事のため、今年で姿を消す運命にある。残念に思った地元の人たちが、現地でコンサートを計画した。けやきに出会い、触れて、心に残したいとの願いである◆開催日は、十月三十日夕と決まった。手づくりのポスターもでき上がった。演奏家は、広島在中の岩田英憲さん。竹や葦の官を組み合わせた笛パンフルートで、木のやさしい音色を奏でる。山梨の元大学講師は、和ろうそくをつくった。けやきの周りに灯し、太陽に輝く昼間とは違う表情をみてもらう◆多くの人たちが想い出づくりを手伝う。西谷さんはみんなの気持ちをうれしく思う。一方で、そっと見守りたいとも思う。「私にとって家族みたいなものですから」。この数ヶ月、樹の命をむぐって、さまざまな意見が交わされた。妙案はみつからなかったが、工事を管轄する県土木事務所は、ある小さな試みをする。消え行くけやきの種子を市北部の自然公園に植え、再び命が芽生えるのを見守っていくという◆西谷さんは少しほっとし、あらためて考える。開発のあるところ、自然はいつも消滅の危機にある。だから、人間は道路や建物を計画する段階から周囲の自然と向き合うべきではないか。自然はずっとそのに息づいているのだから、と◆コンサートは、自然との共生を考えるいい機会になる。
<2000年2月7日付>
うれしい「逆転劇」となった。この欄で以前、県道の拡張工事で姿を消す運命を書いた高砂市米田町のケヤキが急直下、生き残った◆昨年暮れに移植の話がまとまり、先月末、枝を広げていた造り酒屋に敷地から県道の斜め向かいの市有地へ移された。推定樹齢百五十年の大樹は、同時に引越したもう一本の木と、新たな大地で春を待つ◆運命を変えたのは昨年十月末のコンサートである。伐採を残念に思った地元の人たちがケヤキ想い出に残そうと開いた。事情を聴いて音楽家の岩田英憲さんはパンフルートを演奏した。パンフルートは葦や竹の管を組み合わせた民族楽器だ。古くギリシャ神話に伝わる。この日にふさわしい木の温もりがあった◆「ケヤキが歌ってくれる」。木肌にふれてから舞台に立った岩田さんは、こうあいさつして奏でた。まさに木々が風に歌う響きだった。心にしみいる音色に、会場の四百人ほどの人たちはじっと聴き入った◆演奏会のあとも、口づてに多くの人がケヤキに会いに来た。園児が写生に通った。工事担当者は再び移植を提案した。植え替えて枯れるのは忍びないと断ってきた造り酒屋のご主人も心動いたのだろう。根付くことを信じ、申し出を受け入れた◆移植を際にはらわれた枝は、子どもたちの教材になった。そしてケヤキは高砂市の保存樹に決まり、地域のシンボルになった。コンサートの主催メンバー、三好一郎さんはしみじみと思う。「身近な自然をいかに残すか。私たちの生き方が問われている」

道路(拡張)工事自体は三十数年前からの計画やから知ってたんやけど、数年前になってケヤキ切られることを知ったんですよ。
長く見ていたものが無くなる、そんなイメージがなんや湧かんでね。けど、どうしてええかも分からへんかった・・・。でも、いろんな人に「あのケヤキが切られる」と、言うておったんですよ。昨年(1999年)の五月のはじめやったですねぇ、ある女性にその話をしたら、震えながら「ケヤキがかわいそう」って、僕には叫んだように聞こえましたね。まさしく。その時、初めて実感というか、背中にゾクゾクッと来るものがあって、すぐケヤキに会いに行ったんです。
その日は、夕日が沈みかけてる風がものすごー強い日やったから、木の葉もごっつ揺れてて、木が人間を信じてないというか、「近づくな」と言われてるみたいで、しばらく僕、遠くから見てたけど、近づいて木に手をあてて「実は僕は幼かったころあなたに登って遊ばせてもらった者です。僕はあなたの味方ですから」って心の中で言うたんですわ。そしたら、なんや風が止んだような木の揺れが無くなったように思えたんですね。
それからですわ、次々に出会いが始まったんわ。必要な人が必要な時に現れた、いうのが実感ですね。木の側でささやかなコンサートをということになったんも全て流れだったと思います。
「ケヤキのために」という言葉が自然に出来上がっていきましたから。
十月三十日のコンサートは、天気といい何もかもが揃って動いたような日でしたね。ケヤキが望んで、ケヤキの意志で人を呼んでくれたような気がしました。四百人もの人が酒蔵広場に集まったのですから。
僕は、あの日起こった出来事も、出逢った人々も一生忘れることがないでしょう。
コンサートが終わって、ご当主にケヤキの生かし方を頼まれた時は、ケヤキは形を変えて生きるんやと覚悟しました。それがケヤキが切られる一カ月前の十二月二六日、東京造形大学名誉教授の伊藤礼太郎さんが来て、ケヤキにはまだ生気がある、(移植しても)大丈夫って言われて、もう一度お願いしてみようと思って、ご当主に出会ってもらいに行ったんです。
コンサートが終わってからも、西谷家には、たくさんの人がケヤキを見に来てましたし、惜しむ声も多くあったんです。
米田小学校三年の全学年の子どもたちも度々ケヤキに会いにきてくれて、名残り惜しんで学習に取り入れてくれていました。
三十数年前、ケヤキの側で遊んだ僕らみたいな子どもたち、ケヤキを命として考えてくれる子どもの気持ちや声にケヤキが心を動かして、もう一度生きようと思ったんやないでしょうか。そして、伊藤礼太郎さんを呼んだんやないか、と思ったりします。
これからは、あの子どもたちが、ケヤキを見守っていってくれるやろし、ケヤキも子どもたちを見守りたいと思ったんやないかな。
県の方も、ほんまようやってくれました。担当の岩崎さんもコンサートに来てくれて、来たことによって彼も何かを感じてくれたようで、生かす方法を、よう考えてくれたんです。
1月二九日の移植の日は、とにかくこれ以上ないほどの天気で、胸が、気持ちが高鳴ってね・・・。枝をおとされた時は痛々しかったけど、移る所も西谷家と道路を挟んだ向かい側やし、何百年か一緒にいた仲間(庭の木々)ともあまり離れることもなくて、後ろ側にあったもう1本のケヤキと共に2本が寄り添って立っている姿、ええ風景になったと思います。
振り返ってみると、いつもぎりぎりのタイミングで全てが巧く動いた気がしますね。そして、みんなが一番望んでいた通りになった、ということです。
(インタビュー 西村)

























